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	<description>デザイン・アイデアの源泉となるイメージ雑記帳</description>
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		<title>宮崎アニメと夢イメージ。 デジャブ、否！集合的無意識か。</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Oct 2011 15:40:43 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[（この記事は著者ブログマグリットカフェに発表した記事の再録です。2009年8月10日掲載） 前回、スタジオジブリ制作「千と千尋の神隠し（2001年）」を引用した記事を書いていて思い出したことがある。それは映画に登場した風景（場所）がかつて私が若い頃にみた夢と同じ風景（場所）と酷似していて、劇場でそのシーンを初めて観たときに客席から立ち上がらんばかりに驚愕したことだ。 その驚愕のシーン（舞台というか）というのは、お千が湯婆に湯屋「油屋」で働く事を許され、湯屋の上階部にある女中リンに通される女中部屋と、そこから見える一面の海の風景のこと。確か8畳ほどの部屋で障子戸を開けると狭い廊下に格子状の手すりのあるガラス戸。そこからの風景は一面海で海面に魚が泳いでいたり、一両電車が水面を滑るように走っていたり幻想的な風景である。千やリンは、格子戸の手すりの間から足を出し、座って握り飯をたべたりして一面の海の風景を眺めていた。 20歳ぐらいによくみた夢。どこか見知らぬ場所に行き着いてしまって、早く自宅に帰ろうといろいろ人に聞いたり移動したりするのだが家にたどり着けないで、気持ちがあせり不安感が高まり目が覚めるというパターンであった。毎回いろいろなスチュエーションがあり、友人と一緒だったのにはぐれたとか、独りで迷ってしまったりとか帰り方は判っていたのに目やになどが付き目がよく見えなかったり、いろいろなバリエーションがあった。その中で特に記憶に鮮明であったのが先の女中部屋（海上旅館風景）なのだ。 いまでもはっきり憶えている。家族と旅行に出かけたのだが、旅先で宿を探すもなかなか満室で空き部屋がない。やっと空き部屋が見つかり仲居さんに家族そろって案内される。その宿は昔ながらの古くさい陰気な宿。壁は白い漆喰に木製の狭い階段を何段も上がると4畳半ほどの小さい部屋に辿り着く。部屋の三方向を障子戸となっていて、仲居はこの戸を次々に開けてゆくのだ。するとその先の風景は3方向とも見渡す限り広い海。高所からの眺めは午後4時頃の夏の夕方の海で部屋の三方から水平線が見えた。 私はその幻想的な光景引き寄せられ、恐る恐る、映画にもある木製の低い手すりまで近寄り、低い手すりに手を掛け下をのぞいた。かなりの高さであったが、水面の中が透けて見え海の中には、得体のしれない魚や深海魚などがウヨウヨ泳いでいた。あまりの気色わるさに家族を呼び寄せようとしたが、既に家族は無く（あまりの居心地の悪さに先に宿をキャンセルしこの場から立ち去っていたことを私は悟った）私は後を追おうとするが、何故か私だけここに泊るはめになって不安で目が覚めた。 夢の中は色が鮮やかで（私はしばしば極彩色の夢をみる。夢の中で色がとても意識されるようだ。目覚めてもハッキリと色を記憶していることが多かった。今は年のせいか今はない）空の色や海の透明感や魚の色を憶えていて、確か当時は画学生であったのでその様子をスケッチに描いた事を憶えている。そんな夢の記憶の風景があのアニメ映画に登場したので、驚きでしばらくその後の物語を追えなかった。 宮崎アニメはファンタジーとして象徴的なイメージが数多く登場する。特に「千と千尋の神隠し」には多くの象徴的イメージが散在する。この映画の批評・分析は数々の賞を受賞しただけ、数多あるのでそちらにお任せするとして、私感としては自分の夢とシンクロした分、この湯屋のイメージ、特にこの女中部屋のイメージの源泉が知りたい。 この現象はいわゆる「デジャヴ（既視感）」ともちがう。デジャヴとはとは、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることという。私の場合はそれ以前にあまりの印象深さにスケッチとして記録している行為も憶えている。このイメージを要約するとこのようになる。 実際にはあり得ないが、かなりの高所に建つ昭和木造和室から広がる広大な海原風景とそのその部屋に居る孤独感、といったところか。もし、この部屋からの風景が実在し、それをもとに制作しているのだとすれば、記憶にはないが幼少のころに、私もそこへ行った事があるのだろうか。ネットでこの作品のモデルとなる建物はあるかどうか調べてみた。 ウィキペディアには、宮崎氏の親戚筋で神奈川県畑野市鶴巻温泉の陣屋、道後温泉本館、渋谷温泉金具屋、湯原温泉油屋がモデルとなっていると記されている。どれも海に隣接する場所ではないのであのイメージはあくまで想像の産物ということか。するとあのイメージを共有する無意識レベルの何かがあるのだろうか。 私の知る限りで最も近いのは心理学者カール・グスタフ・ユング(1975〜1961）の提唱する概念「集合的無意識」だ。「集合的無意識」とは人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を超えた先天的な構造領域だそうである。つまり無意識には、個人レベルでの経験で作用されるレベルの深層に民族や人類すべてのこころに普遍的に存在する先天的な原型で存在するという。民族の神話、個人の夢や夢想に類似のイメージがみられるのは人類全般に原型があるからだとして説明している。 だとすると、この旅館からの海風景イメージは（この通りのイメージでなくても）なにか共通する原型があるのだろうか。誰かこの風景で私と同じような思いの方はいませんか。複数の人間が同じ体験をしていれば、ひょっとして「集合的無意識」が作用しているかもしれないですゾ！]]></description>
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		<title>名前を付けるということ。〜ユキヒョウの赤ちゃんからフランケンシュタインの怪物まで〜。</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Oct 2011 14:47:10 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[&#160; （この記事は著者ブログマグリットカフェに発表した記事の再録です。2009年8月07日掲載） 多摩動物公園では2009年7月2日に同園で誕生したユキヒョウの赤ちゃんの名前を募集している。 http://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=event&#38;inst=tama&#38;link_num=12170 赤ちゃんの母親はポーランド生まれので名は「ユキ」。父親はフィンランド生まれで名は「ヴァルデマール」。父親名は、デンマークの王様の名に由来するそうだ。赤ちゃんには父方の名付け作法にのっとり歴史上の偉人の名前にするという条件がつく。募集期間は2009年８月13日（木）～18日（火）の5日間。園内の施設に投票用紙で応募しているようだ。 ご興味のある方は多摩動物公園に出向いてみてはいかがだろうか。 さて、動物に名前をつける行為はその動物を人間世界に引き入れるということだ。それまでの自然界の存在（一般名詞）を、名付け（人称名詞）によって動物の種から切り離し個として認知するという行為である。日活映画「豚がいた教室（2008年）」では食用の豚に小学生たちが「Pちゃん」と名前付けてしまった事で、子供たちの「食べる」「食べない」の議論となる。これは名付けたことで食肉としての種（食べる物＝非人格）からペット（個を認知された帰属者＝人格）へ変貌してしまったのだ。 こうなると、食べるべきかどうかは大人でも難しい選択となる。映画は食べることの本質を問い直す試みであろう。話を戻す。名付けた側（人）は名付けることでその個を所有することになる。人間の場合も同様に我が子を名付けることで社会認知させると同時に親子の支配関係を明確に宣言する。同時に名を得ることは、その社会での自らの存在の証となる。 宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し（2001年）」でも、千尋が銭婆から名を剥奪され異界の名「千」を強制的に与えらる。このことは、人間界の個を否定され、異界での存在の証を付与されたことを意味する。つまり、かつての自分を全て捨てて新しくこの場所で生きなさい、ということだ。さてもう一つ、名の取得に関連する物語に登場する有名な「名」がある。今度は名を与えなかったことで起きる悲劇の物語。その「名」とは「フランケンシュタイン」のことである。 フランケンシュタインはドラキュラ、オオカミ男とならんで三大モンスターと呼ばれる。日本では藤子不二雄Aのマンガ又はアニメ「怪物くん(1965〜）」に登場するキャラクター、「フランケン」の名で親しまれていたりする。一般的なフランケンシュタインのイメージは、体が大きく頭の上が平たく、額はせり出し、口は大きく唇は薄い。首に五寸釘（五寸かどうかは不明）を刺し、動きは遅く、知能も低そうな愚鈍の風貌である。 これはユニバーサル映画「フランケンシュタイン（邦題・1931年）」で役者ポリス・カーロフが演じた時の特殊メイクデザインが現在のイメージとして定着している。ちなみに無名だったカーロフはこの演技で一躍トップスターの殿堂入りを果たす。怪物メイクで顔を隠したにもかかわらず、迫真の名演技で評価を得たのだ。 一般に知られているフランケンシュタインの名は怪物を創造したマッドサイエンティストの姓である。ビクター・フランケンシュタインが彼のフルネーム。で、怪物の名はというと、映画でも原作でもこの怪物には名が無いのだ。そして、原作では怪物が名が無い事がこの怪物物語の悲劇としての重要な要素となっているなのだ。 原作は1818年にメアリー・シェリーが匿名で出版したゴシック小説「Frankenstein: or The Modern Prometheus」（邦訳：フランケンシュタインまたは現代のプロメテウス）である。単に恐ろしい怪物ホラー小説ではなく、出生を祝福されない創造物（怪物）に復讐される創造主・青年科学者ビクター・フランケンシュタイン）の悲劇を綴った小説で、後世の作家や評論家から科学的テーマから人間悲劇を描いた初のSF小説と評されている。原作のストーリーは以下の通り。昔に読んだので記憶違いもあるかと思うが、ご了承いただきたい。 科学者を志しドイツで自然科学を学ぶビクター・フランケンシュタインは生命の謎を解き明かし、社会貢献を果たす野心に燃えていた。その野心はやがて、科学力での「理想の人間の創造」へと辿り着く。やがてその執念は狂気をおび、墓を暴き、その死人の体を継ぎ接ぎ、雷の力で命を吹き込むというおぞましい方法でようやく人造人間を完成させる。しかし完成した人造人間は高い知性と生命力を有してはいたが、その容姿は怪物そのものであった。 そして、誕生直後の無知から殺人を犯してしまう。その醜い姿と行動に理想をくだかれ、自分の愚かさを知ったビクターは人造人間を残し、故郷スイスへ逃げ帰る。人造人間はその強靭な体で生きのび、創造主を求め同じくスイスへ向かうが、その途中、知識と教養を身につけ人間として成長するが人々からは忌み嫌われ、耐え難い迫害にあう。 傷つき、人間に失望した怪物は深い孤独の闇にはまる。そして再会したビクターに異姓の人造人間をもう一体造ってほしいと申し出る。同じ怪物ならお互いをいたわり、支え合って生きていける。願いを叶えてくれれば、もう二度と人間界に姿を表さないと怪物は約束する。しかし、ビクターは自らの理想からほど遠い怪物を創造したことの背徳の念から断ってしまう。これに怪物は深く嘆き悲しみ、絶望し、物語はさらなる悲劇へと進行してゆくことになる。 原作はフランケンシュタイン、怪物とフランケンシュタインの友人の三人の告白形式で物語は進行する。怪物というメタファーを使い、科学の理想の元に義務と倫理で揺れる人間存在の悲哀を描いている。怪物は創造主である人間から認知されず、悩み苦しんだ末創造主に助けを求めるが断られやがて本当の怪物となる。 怪物は名すら与えない（存在の証を与えない）創造主を憎んだが、やがて創造主の死で己を最も良く知る唯一存在をも失い、怪物は絶対的な孤独を生き、いずれ訪れる死の静寂を希求し異界へ去るのだ。これに比類する怪物が他にいるだろうか。悲劇が怪物を造るのだ。なんと奥深い。作者のメアリー・シェリーは怪物に名を与えないという設定で後世に残る怪物を創造したのだ。人間が作り出したものが人間世界には相容れない異質存在と化すメタファーは21世紀の現代にも機能しているように思える。 この小説は、後にSF小説の始祖と呼ばれるアイザック・アシモフに継承され、現代のロボット工学に連なる「ロボット三原則」を提唱することになるのだが、その話は次回に回す事にする。余談であるがフランシス・F・コッポラ監督がこの小説を原作に忠実にリメイクしている。「フランケンシュタイン（邦題）1994年」。ロバート・デニーロが悲哀のある怪物を見事に演じ秀逸な作品となっている。 最後に多摩動物園のユキヒョウの赤ちゃんの名前、フランケンなんてどうだろう。歴史的人物？だし。えっセンス悪すぎ！？ごめんなさい。]]></description>
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		<title>映画「2001年宇宙の旅」のモノリスが 火星に実在した！？ ーNASAと現代美術の関係ー</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Oct 2011 14:45:31 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[（この記事は著者ブログマグリットカフェに発表した記事の再録です。2009年8月06日掲載） NASAが撮影した火星の地表写真の中に、長方形の板状の岩が存在するものが見つかり話題となっている。欧米の大手マスコミ各社が報じているようだ。日本のマスコミはこの手のトンデモ臭のある話題はあまり報じないようだが。砂漠のような地形に、ポツリと存在し長い影を造っている長方形の岩。その様子はまさにスタンリー・キューブリック監督作品の映画「2001年宇宙の旅」に登場する、人類進化を導く超越存在の創造物「モノリス」にそっくりなのだ。それが火星に高度文明の痕跡を臭せマスコミが飛びついたようだ。 この映画の公開は1968年公開。今から41年前である。監督のスタンリー・キューブリックとSF小説の大家アーサー・C・クラークがアイデアを出し合い、映画の脚本キューブリックが、小説はアーサー・C・クラークが執筆している。 映画は当時アポロ計画を推進していたNASAの全面協力の基に撮影されている。ちなみに、NASAは翌年1968年7月20日に、月面着陸のミッションを成功させてる。この映画とアポロ計画は何か関係があるようにも思える。キューブリックはアポロ計画で撮影された映像や写真を多数提供され、その資料を丹念に研究し、宇宙空間のリアルな映像、特に宇宙空間での太陽光と陰影の在り方を当時の特殊撮影技術で再現してみせたと云われている。公開当時は宇宙空間のリアルで鮮明な映像など見たことのある人間などほとんどいなかったので、記録映画の様な印象で受け止められた。 この火星のモノリス写真の登場をトンデモ本的陰謀論で解釈すれば、当時からNASAは人類を導いた超越的存在（神）の存在を認めおり、月や火星に実際あるモノリスの存在を暗示させ、将来の超越存在との遭遇に人類を備えさせる目的でキューブリックに映画を作らせたということになるのだろう。実際にハリウッド映画はアメリカの国策で制作することがあるようだ。スティーブン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」も、NASAだか空軍だかが国策として作らせたという話もある。 さて、その「モノリス」であるが、映画でのこのイメージ&#8212;&#8211;縦長で艶の無い漆黒の造形&#8212;&#8212;はどのように決められたのか。当初の脚本では超越存在を宇宙人クリーチャーのイメージで進めていて、キューブリックはそのデザインに悩んでいたそうだ。宇宙人クリーチャーはどう造形してもお子様映画になってしまうのだろう。神の比喩としても超越存在の造形は人に近くてはならない。キューブリックは脚本を作り直し、神を暗示するオブジェを登場させることにした。デザインは当時の現代美術界を席巻していた表現形式「ミニマリズム」からヒントを得たようだ。 ミニマルアートの特徴は作品の展示空間を強く意識し調和を図ることが意識される。この造形意識は、のちのインスタレーションという手法にも繋がってゆくのであるが、形態的 特徴は、タブロー（絵画）では色数を制限し幾何学的で、作り手の存在を感じさせない筆致のない表層。オブジェ（彫刻）でも幾何学的で素材も工業製品的なつくりで手仕事性を感じさせない無機質な印象を形成する。映画のモノリスはミニマルアートの典型的造形作例であるといえる。50年代後半から60年代後半までのアメリカ現代美術の最先端を取り入れた時代性の強いデザインである。 火星の砂漠にあるモノリスの形態もミニマルアートの影響を受けていたとすると、制作年代は考古学的年代ではなく、ほんの50年前後前ということになる。しかも火星人は地球人の現代美術をリスペクトしているようだ。 NASAは度々、こうした高度文明を臭わせる写真をリークしている。これは、NASAが火星探査予算獲得のための話題提供しているといわれている。確かに以前にも火星に着陸した探査機が撮影した写真に写る人影が話題になった。マスコミが騒ぎ、アメリカ国民の関心を引き付けておけば火星探査計画の予算が削られる事はない。人類初の月面着陸を達成したアポロ計画がその後頓挫したのは、アメリカや世界の人々の関心が薄れたことに原因があるといわれる。NASAの火星探査計画はその経験を踏まえているのだろう。]]></description>
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		<title>裏路地へようこそ（3） 路地裏写真のトンネル構造。</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Oct 2011 13:52:47 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[&#160; （この記事は著者ブログマグリットカフェに発表した記事の再録です。2009年8月06日掲載） すべての裏路地写真は異世界へ通じる参道をイメージさせる。そう思うのは私だけであろうか。風景としての裏路地には、人の気配の暖かさがある。反面、実際に裏路地に入り込むと部外者の立ち入りを拒む拒絶感のようなものを感じる。これはその路地が狭ければ狭いほど感じてしまうのだ。ここを通ってもいいものだろうか、という雰囲気である。私有地かもしれない不安感。その路地に植木や自転車など各家の所有物が置かれている場合など一層、罪の意識を感じてしまう。 この拒絶感があればあるほど、通り抜けたときの開放感がたまらない。通りぬけた先が良く知る道の場合などは、脳内の地図が瞬時に作り変られ、もう一つ真実に近づけた快感が走る。新しい空間認識を得た今までとは違う自分。そういうものに出会えるのだ。読者の方々も子供の頃には自由に他人の家の庭先に入り込んだり、大人が通れない狭い路地を行き来して遊んだ経験をお持ちでないだろうか。かつて味わった、世界認知の快感が蘇るのだ。 「電脳コイル」というアニメがある。NHKで放映され、ご覧になった方もおられるかもしれない。高度なユキビタス技術が発達した近未来の地方都市。全ての子供たちは電脳メガネをかけ可視化された仮想世界と現実の間で日々生活している。メガネは街の情報を可視化し、子供たちはメガネを通した非現実的な仮想世界を現実として生きている。物語はメガネにまつわる街の秘密を子供たちが探り当てるというものだ。 この子供たちは視覚的には仮想空間で埋められた街を見ているが、行動する世界は現実の街だ。現実の路地を歩き現実のビルの中を探しまわる。鬼ごっこのように「違法電脳体除去ソフト」に追いかけられ路地を逃げまわり、地面に落書きするように仮想世界制御のタグを打つ。このアニメドラマは昭和の子供たちがしてきた遊びや冒険を、高度ユビキタス時代の仮想世界を通して追体験する子供たちを描いている。その体験とはつまり己の住む世界の認識作業である。いつの時代でも子供たちの関心は「世界がどうなっているか」なのではないだろうか。 裏路地散策は少年期のころの冒険の興奮を呼び起こす。見知らぬ路地をくぐり抜ける先にある世界への期待。だから撮影した裏路地写真は異世界へ通じる参道のように見える。写された路地の奥は別の道路や建物に遮られるか左右どちらかに湾曲しているがその先の様子は想像の世界だ。路地の両脇には住人たちの気配を漂わせて部外者の往来を拒絶するように静かに佇む家々。　裏路地写真は狭いトンネルをくぐらせた先にある想像の世界をイメージさせる。そこが私を惹き付けているように思う。読者の方々も近所を散歩する際にはカメラを携えて気になる路地を撮影されてはいかがだろうか。]]></description>
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		<title>裏路地へようこそ（2） 裏路地には住人のアウラが潜む！？</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Oct 2011 13:35:39 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[&#160; （この記事は著者ブログマグリットカフェに発表した記事の再録です。2009年8月05日掲載） 裏路地には住む人のアウラが潜む、といったら大げさだろうか。アウラとはラテン語の「aura」。オーラと同じ言葉だ。ドイツの哲学者ベンヤミンが著書「複製技術時代の芸術作品」のなかで、複製されたものにはない芸術家のオリジナル作品のみがもつ「一点性・一回性」に宿るという概念を言う。 路地を撮影し鑑賞物と捉えた場合、そんなものを感じてしまう。それぞれの路地には住人たちの日々の生活痕が刻まれている。そして、彼らの家に対する「内」の概念に隣接する「家の外」という認識がその路地にそこの住人固有の無意識の空間を作り出しているのだ。 ともあれ、撮影した写真がどのようなものか、まずは路地の撮影の仕方から記述しよう。ちなみに私はプロカメラマンでもカメラ小僧でもない素人なので撮影の仕方には独断と偏見に満ちあふれているので要注意である。 住宅街の路地を撮影するときはカメラを縦にして取るのが臨場感がでる。本来私は縦ワイドの写真は好みではないのだけれど、路地の撮影は縦のほうがふさわしい。横ワイドだと、路地の入口手前の風景ばかりが画面を占有し路地自体の空間が捕まえられないからだ。 撮影アングルとしては、手前に路地の入口部分を入れながら路地の中程の様子と路地の一番奥の様子をフレームの中心からややズラして撮影する。これは単調になりやすい風景なので多少なりとも動きを持たせるためである。 このアングル決めは、もたもたしていると近所の住人に怪しまれるので手早く決めて瞬時にシャッターを切るのであるが、露出はアンダー気味に取りたいので予め露出設定を準備しておく。気になる路地を見つけたら素早くカメラを目線に持ち上げ一瞬でアングルを決定してシャッターを押す。その後は何事も無かったように散歩を続けるのである。 この同じアングルの写真にはそれぞれ異なる空間でありながら、ある種の似た要素を持っている。それが私の関心を魅いているようである。次回は私の関心を魅く要素を記述してみたい。]]></description>
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		<title>裏路地へようこそ（1）裏路地との出会い</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Oct 2011 13:15:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>amanot</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[裏路地]]></category>

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		<description><![CDATA[&#160; （この記事は著者ブログマグリットカフェに発表した記事の再録です。2009年8月04日掲載） 最近、住宅地を散歩していて裏路地がとても気になる。私の言う裏路地は公道に面して立ち並ぶ家と家の間を通るプライベートな道のことである。 私が住む東京都●●区は主要幹線道路が交差し、華やかな商業エリアや見上げるほどの高層ビルが集積する街として認知されているが、その華やかな一角からちょっと奥に入ると閑静な住宅街や公園や緑地だったりする。旧い昭和テイストの家々や現代的な建築の家が混在しつつも暮らしの場所としての静けさを保っていて、都内の住宅地に共通した風景が見られる。 そんな、新宿区内の住宅地を私はたまに散歩する。散歩の目的は運動不足の解消からだが、その目的は果たせていない。どうも散歩程度では私の脂肪は燃焼しないようだ。やせ形体型で腹だけポッコリ。洋梨体型。それでもしないよりマシとばかりにスウェットと運動靴に野球帽、そして最近はカメラを首から下げて散歩に出かける。かなり異様だ。ストーカー仕様だ。 カメラは歩く道程でみつけた何か面白いものを撮影してやろうと携帯するのだが、住宅街では面白いものなどそう滅多に無い。へたによそ様の家でも撮ろうものなら泥棒かストーカーの下見と間違えられる。余談であるが、一年前仕事で資料作成のため、池袋の繁華街にあるオープンテラスの某ハンバーガーショップの様子を撮影していたら、そこの客から店に通報され店長に呼び止められた。 仕事であることと、その目的を説明して事なきを得たが、その店長は警察に突き出さんばかりに私の袖を強く握っていたことを憶えている。そのことを知り合いのカメラマンに話したら、最近は街でカメラマン然として撮影していても警察に通報されることがあるそうだ。たまたま通りかかった通行人が自分を撮られたと思いこみプライバシー侵害だと通報したそうだ。一昔前まではそんなこと滅多になかったのに。 そんな危険含みといえど、何か無いかと探しながら歩くのは楽しいものである。家を撮るのがまずいのなら家と家の間の路地に注意をはらって撮影をしてみた。持ち帰りMacで編集してみて、裏路地の空間構造にある種の面白さを感じてしまった。それは神秘的な未知なる異空間への通路のイメージと似ているからである。]]></description>
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